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毎日をシンプルに生きる

愛する人とのお別れの時

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学生時代の親友が、6年ほど前から大病と戦っている。

なぜ、病気と「戦う」という表現をするのか?

そこに勝ち負けがあるのはどうなのか?

と、何かの本で読んだことがあるけれど、彼女は確実に戦っている。

 

見つかった時は、いわゆる末期状態だったが、
手術は成功したのかここまでなんとか頑張ってこれた。
全身に転移していても、これ以上の治療は望めないかもしれないと言われても、
彼女は希望を失わない。
1%でも可能性があるなら、その方法を試したいと切に願っている。

なんて、強い人なんだろうと、ただただ尊敬の念しかない。

これまで、
抗がん剤の治療はどれだけ苦しかったことか。
どれだけの痛みと戦ってきたことか。
想像すればするほど、「壮絶」という言葉は決して誇張したものではないと確信する。

 

自分が同じ状況だったら、絶対に途中で諦める。
いや、病気が見つかった時点で、生きる希望も先に進む勇気もなくなるだろう。

 

学生時代を思い起こすと、
シャイであまり人付き合いが得意ではない私を
彼女はいろいろなところへ連れ出してくれた。

社交的な彼女とは正反対の私なので、連れ出された先でも馴染めない感じはあったけれど、彼女は決して私を一人にしたり、居心地悪いようにはせずちゃんとフォローしてくれた。
友達が多い彼女だったが、他の誰よりも二人で過ごす時間をとってくれた。
ちょっとでも私が、「そのアイシャドウ、かわいい、似合っている」と褒めれば、
「そう?嬉しい。じゃあこれあなたも使って。あげる」とすぐに私にくれるのだ。
スキンケアの方法も教えてもらったし、会えない日でも毎日毎日電話をくれて、ドライな日本人の友達と比べるとまさに「親友」ってこーいう関係を言うんだろうなという付き合いだった。

 

大学卒業後、私は就職して社会人になり、彼女は大学院へ進んだ。その頃から、生活スタイルの違いもあり次第に疎遠になっていった。

彼女が卒業し、オーストラリアへ帰ってしまってからも連絡は取れなかった。

当時は今ほど、ネットもEメールも普及していなかったから。

その後、Facebookなどで彼女を探し続けていたけれど見つけられず、
ようやくコンタクトできたのが6年前。
彼女の病気が発覚するほんのちょっと前のこと。

 

ようやく会えたのだから、また再会したかったし、オーストラリアにも行ってみたかった。

 

でも、

もう、

会うことはできないのかもしれない。

 

こうやって遠くにいながら私が願うこと。

 

どうかこれ以上苦しませないでください。
安らかに、幸せに人生の終焉を迎えさせてください。

 

普通は愛する人に長く生きてほしいと願うものだろうけど、
本人がものすごい苦しみの中にいるのに、「長く生かせて」とは到底思えない。
たとえ、本人が生きたいと言っても、そんなにがんばらせてはいけないとさえ思う。

こんな考え方をしてしまう私はおかしいのだろうか?

非道的な考えなのかもしれない。でも、苦しみの中生き続けさせることが幸せとは思えないからなのだ。


いや、もしかして私も、死を宣告された時、

「苦しくてもいい、死にたくない。最後まで頑張る」と思うのかもしれない。